文=鴉鷺
編集=對馬拓
この小論では、My Bloody Valentineの主に90年代前後の作品をケヴィン・シールズの意識的/無意識的なものに限らずに解釈し、後年の視座から読み解きながら、一つの音楽についてのヴィジョンを提示したい。それは私見ではないか、などのご意見はご容赦願えると幸いです。
1.『Loveless』以前
1987年、シューゲイザーとして記録される最初の作品であるMy Bloody Valentine(以下MBV)の『Ecstasy』がリリースされる。この作品は所謂C86や、Heavenly、Another Sunny Dayなどを抱えるSarah Recordsなどの影響が前景化された、淡く幻想的なギター・ポップとでも呼べるサウンドである。ポップ・ソングとして珠玉でありつつ、その後のエセリアルなヴォーカルや明らかに現実の空間とは異質な、非在の地点を叙景するようなサウンドが、この時点で既に聴き取れつつある事実を注視するべきだろう。
1988年8月にはEP『You Made Me Realise』がリリースされる。特に表題曲は、ポスト・パンク/パンク・ロックとエセリアルなファクターの最初の結節点と言えるだろう。粒子の荒いディストーション・ギターとエセリアルな男女二声のヴォーカルという、初期シューゲイザーからニューゲイザー以降、例えばThe Pains of Being Pure at Heartも提示するスタイルの原型である。
そして、同年11月にリリースされた1stアルバム『Isn’t Anything』における、美しく不明瞭で、不安定で、不定形な感覚も注視したい。この作品以降のMBVからは、例えば『Ecstasy』におけるギター・ポップ、『You Made Me Realise』におけるパンク・ロック/ポスト・パンクのように、明確な、一聴して断言できるリファレンスの気配が希薄となる。おそらくそれは、音楽の、言い方を変えればリファレンスとしている音楽ジャンルの原理への問いが始まった瞬間であり、MBVが固有の美しい地平に足を掛けた瞬間だろう。同時に、Lovesliescrushingを起点とするアンビエント・シューゲイザーの直接的なリファレンスでもある。
2. 現出
そして1991年11月、長いスタジオでの実験の果てに2ndアルバム『Loveless』がリリースされる。これは現代のシューゲイザーの一つの産声とも言える。ポップ・ソングの実験、偏執的なサウンドへのこだわり、独創的なオーバーダブなど、様々な観点から語られる今作だが、ここではあえてそのコンセプチュアル/概念的な側面、つまり背景に着目したい。
『Isn’t Anything』における、リファレンスとする様々な音楽の固有の原理への問いは、ロック・ミュージックにおける各々のジャンルの固有化(=固定化)という概念への否定に至った。つまりそれは、音楽における〈神学的思考=原理についての思考の反復〉への否定が始まったことであり、その時点での特定のジャンルに埋没することへの否定であり、守中高明が定義する〈痕跡〉(*1)の機能であり、即ち〈脱構築〉である。そして、その延長として、原理は原理として存在すること、原理が境界線で区切られた領域であることを喪失する。複数のジャンルに跨るリファレンスは、折衷でもマージでも多様式主義でもなく、原理と原理が境界を失い融和する地点──つまり『Loveless』として、一つの美しい音楽として創出されるのだ。
MBVはまず、自分たちが愛聴してきた音楽、例えばC86、Ramones、Cocteau Twins、Brian Enoなどの音楽を、自らに必然的なものとして引き受ける。パンク・ロックがパンク・ロックであること、幻想の音楽が幻想の音楽であること、アンビエントがアンビエントであることに対して、単純な否定や解体ではなく、その音楽であるように保持される要素を保ちつつ、その音楽であることを否定するように構造を問い直し変貌させることで、〈侵犯〉と〈引き受け〉の二重の身振りとして成立させる。そして、音楽的な核心ではなく構造を破壊し、分解し、浮上させ、それらの音楽(=原理の高位に置かれた要素)に対する転換もしくは転倒──つまりアンビエントの環境性やCocteau Twinsの異教的幻想の構造、C86におけるコントラストの美学(後述)などを変貌させ、その各々の構造がどのようなものであるか正確に理解した上で、それ以降の新しい構造とテクスチャーを持った音楽として、そして一つの特異点として、シューゲイザーとして、『Loveless』として再構築される。
*1=守中高明は、差異を生み出す非-起源的な、記号や操作、概念の前にある原的なものであり、起源という概念を失効させ、神学的思考とその反復のスタイルを失効させる、機能として運動するものとして、“痕跡”という概念を定義する。
3.『Loveless』における脱構築の実践、そして現在のシューゲイザーへの系譜
具体的な手引きとして、例えばBrian Enoによるアンビエントのエセリアルな持続音は、MBVのシグネチャーでもある深いリヴァーブとエセリアルなサウンド・テクスチャーとして、原型からロック・ミュージックのファクターへと変貌を遂げている。それは、エリック・サティ以降の時間芸術としてのアンビエントが内包する〈非在の地点から永遠に向かう時間感覚〉を、ロック・ミュージックの美学である凝縮された時間への変貌として、〈幻想と無時間的な非在の地点の叙景〉(=時間の存在しない、美しい箱庭としての作品世界の描出)にスライドさせる行為である。その時点で、アンビエントが強く抱えるテーマである環境との親和性は剥奪される。つまり、アンビエントにおける高位概念の転倒と転換が成立する。アンビエントの主軸であった要素は、シューゲイザーのエレメントとして破片へと砕かれ、分解された後に残滓として拾い上げられ、アンビエントの文脈から見た特異点として、シューゲイザーが生起するのだ。
それと交錯するように、MBVの初期に顕著であり、ある種の原理であったC86、つまりSarah Records周辺のギター・ポップや、それ以降もある種の基盤を成していた初期パンク・ロック/ポスト・パンク、同様にMBVが強く影響を受けているCocteau Twinsなどの現在でいうドリームポップの原理もまた、同時に変貌する。ギター・ポップやパンク・ロックが描く、コードの転換と旋律の展開による鮮やかなコントラストの美学と力動とその色彩、そして強く眩しい音楽的なエネルギーは、例えば「To Here Knows When」で強く聴き取れる、コードとコードの間にある美しいグラデーションや滑らかでエセリアルな旋律というファクターとして、前述したアンビエント以降の無時間的で箱庭のような音響空間を構築し、同時にアンビエント以降の無時間的な感覚と幻想性に沿って、リアルからリアリティへと疾走するパンク・ロックのエネルギーは、幻想に向かって力強く進行するアトモスフィアの創造として働き始める。ギター・ポップの淡い感傷や叙情、胸を締め付ける甘さ──つまりある種の情動の表出は、〈見えない、または存在しない美しいものへの憧憬の叙情〉へと変性してゆく。非在の地点の叙景や、非在の美しいものへの憧憬の抒情こそがシューゲイザーという音楽の一つの中核を成しているという観点は、シューゲイザーの要素を持ったジャンル外の音楽、つまりポスト・シューゲイザーとしての音楽に対する収集の、一つの判断基準と成りうるだろう。
そして、ゴシックとはまた違う、現実空間とは明らかに異質な音響世界の背景に、Cocteau Twinsが描き出した異教的幻想に対する音楽的なスライドを聴き取れる。異教的幻想、つまりゴシックと幻想の音楽の一つの流派でありつつ、そこにブルガリア声楽のリチュアルな唱法や、「Beatrix」に聴き取れるシタール、クラシックのティンパニのようなドラムの用法、そのブルガリア声楽以降の歌唱法などが混在するゴシック的な多様式主義などの要素を持ち込んだCocteau Twinsの音楽を、私室から別世界を精密に夢想するマニエリスティックで密室的な想像力、つまり反世界的な想像力として、まず解釈したい。そのCocteau Twinsの音楽が、MBVの非現実的でありつつ開かれた、鮮やかな別世界の叙景へとスライドした背景として挙げられるのは、私室におけるある種の文学的夢想、つまり個人というレベルでの完結から、ある種のストリート・ミュージック/都市の音楽として定義できるインディー・ロックやパンク・ロックの影響下で、都市という場とそれを構成する要素、つまり他者という回路を経由して密室から世界へ開かれたことが指摘できるのではないだろうか。『Loveless』が描き出すのは明らかに現実とは違う別世界だが、そこには人間の息遣いが感じられる。ただ指摘したいのは、そこには個人/社会/世界というある種の関係性の式における〈社会〉が明らかに欠落しており、作家(もしくは聴者)と世界を結ぶものは夢想と幻想である。そして、社会の欠落はセカイ系の成立要件を部分的に満たしていることにもなる。
4. 社会の欠落という幻想の系譜、もしくは変成した頌歌としてのParannoul
近年、TwitterやRate Your Musicを中心に高い評価を集めている韓国のソロ・シューゲイズ・ユニットのParannoulは、明らかに主題としてセカイ系を置いている。2ndアルバム『To See The Next Part of the Dream』の冒頭では、映画『リリイ・シュシュのすべて』の劇中の台詞がサンプリングされ用いられているが、『リリイ・シュシュのすべて』はセカイ系の一種、もしくは変種と言えるだろう。セカイ系とは、個人と世界の関わりの中で社会という回路が欠落している物語である。密室から都市と夢想を介して他者へと開かれた『Loveless』が明示したのは、夢想と憧憬、幻想と架空世界の描出という一つの夢によって、作家/聴者/世界は繋がりうるという事実である。ロックにおけるリアリティ神話への否定とも言える。そして、それ以降の現在形として、Parannoulは自覚的に社会の欠落、つまり僕/君/セカイで構成される物語を主題として掲げる。この流れもまたシューゲイザーの起点が脱構築であることの表れではないだろうか。つまり、特異性が歴史的文脈を変貌させ、そしてその変貌の原理、つまり原理それ自体が永遠にスライドし続け、『Loveless』という起点の中核概念、つまり原理を引き受けながら(=世界と個人の関係における社会を抹消しながら)、侵犯する(=世界と個人を結ぶ夢想の中に〈君〉と物語を挿入する)営為と言えないだろうか。さらに、『Loveless』における高位概念である固有のエセリアルな幻想性は、エモやポスト・グランジ由来のダーティーで感傷的なギター・ノイズで塗りつぶされる、という形で転倒されている。指摘しておきたいのは、Parannoulの表現はシューゲイザーという流れの中での一つの出来事であって、例えばニューゲイザーと呼ばれるバンド群の音楽においても近い解釈ができる作品があるだろう。つまり、〈原理の変貌〉という原理を、シューゲイザー史における一つの通奏低音として定位できるのではないか。また、『Loveless』からParannoulへ、というシューゲイザーの(非)社会関係史も描けるだろう。
なお、前述した音楽的な働きからブルガリア声楽、Cocteau Twins、My Bloody Valentine、もしくはドビュッシーを始めとする印象派、Brian Eno、My Bloody Valentineという、MBVという一点でシューゲイザーという特異な地点が生起される文脈を聴き取れ、シューゲイザーの始点の探究のために民族音楽やクラシックを辿る道が開かれるが、これは余談である。
5. 現段階での総論
前述の一連から見えてくる事柄をまとめると、シューゲイザーという音楽は、一般に言われるような〈創造のための破壊の成果〉ではなく、〈正しく各々の音楽を継承しつつ、それを引き受けながら侵犯する両義的な営為〉であり、〈単線上の起源の喪失〉──つまり特異点として生まれた音楽であろう。おそらくそれゆえに、“○○のような”という形容詞を『Loveless』をはじめとするシューゲイザーに当てはめることの困難さ、ジャンル外の作品やルーツとの比較で語ることの困難さがあり、オリジナル性、唯一性がある。その新しい音楽の概念は、変形し、転位したロック・ミュージックとして、ロックの歴史という前提に向かって投擲され、歴史という連鎖の中に刻印され、新たな系譜と戦略を生み、展開され、徐々に音楽の基盤を変容させる。
そのことは、以降のシューゲイザーから近年の電子音楽に至るまで、様々な影響を与えている。その後のシューゲイザーと周辺の歴史の中で、MBVの模倣が困難であることや、同種の楽曲とサウンドを抱えたバンドがあまり見られない理由として、①そもそも模倣という営為の中に原理や構造への問いが含まれていないこと、②起点の一つとして前述の論理が作動していることで、正しくシューゲイザーを継承し更新する作家は、その『Loveless』という一つの原理すら形が変貌する地点までスライドさせる必要があること、この2点が挙げられるだろう。そして、多様式主義的な作品に対してしばしば挙げられる、各々の要素の強度が担保されないことや、原理と原理が結びついていないことに対する批判は、最初の地点で超克されている。それが作品の完成度を担保している面もあるだろうし、シューゲイザーの歴史が構造とテクスチャーの更新であり、変貌の連続であることの理由でもあるのだろう。
6.『Loveless』の現代性、及び現行シーンにおけるジャンル混交性について
リファレンス(=原理に対する痕跡の機能)として、そして侵犯と引き受けの両義的営為として、境界を失い一つの特異点として現出する『Loveless』は、極めて現代的だ。『Loveless』での音楽的営為には、現在のハイパーポップやポスト・クラブにおける現代思想の受容以降の方法と近しいものがある。ハイパー・ポップにおけるポスト・インターネット以降の情報の散在と混沌、もしくは、アーサー・C・ダントーが『芸術の終焉のあと』で“現代は情報無秩序の時代なのであり、完全な美的エントロピーの状態にある。しかし、現代はそれと等しく、まったく完全な自由の時代でもある。今日、もはや歴史のいかなる境界も存在しない。あらゆることが許されている”と語るような、自由と境界の消失という観点から、その状況下で〈光り輝くエレメントとして破片のように存在する20世紀以降のポップス〉を〈歴史的文脈(=一つの構造)が破壊され、ある種の残滓として浮上するもの〉として定義し、それを分解/再構築し、一つの痕跡の機能以降として、ポップスの高位にある定型的、伝統的な構造という観念/概念を転倒させつつ特異なものとして提示する方法──つまり20世紀以降のポピュラー・ミュージックを脱構築する方法は、『Loveless』でケヴィン・シールズが採った方法と近しいものがある。
例えば、名前の通りデコンストラクテッド・クラブ(=ポスト・クラブ)は、広範なクラブ・ミュージックや電子音楽、Grimesなどのヒップホップ以降の音楽に対する脱構築以降の音楽である。それは、Arcaの『Xen』が現行のエクスペリメンタル・ミュージックにおける一つの特異点としてシーンに与える影響を見れば明らかだろう。おそらく『Xen』はGHE20G0TH1K(*2)で並列に流れていた様々なジャンルの音楽が一つのリファレンスとなっている。その現場で多ジャンル(=複数の文化圏)が極めてカジュアルに、そして並列に扱われていたことは、現在の音楽シーンにおけるジャンル混交性の一つの起源として見落とせない。決して作家の悪ふざけや亜流であることから混交と統合が行われるのではなく、クラブ・シーンにおける、本来的な意味での多様性や作家の音楽への眼差し、理解の解像度の高さ、作品研究や分析、現代思想の受容から生まれた高度な営為が、現在のジャンル混交的な音楽の流れである。そして、その現場におけるジャンル混交と、その周辺/以降の作家の境界線を全く意識しない営為は、前述のアーサー・C・ダントーによる“歴史のいかなる境界も存在しない、全く完全な自由の時代”という現代の状況にある部分で還元される。こうした営為は、現代の芸術における無境界的/情報氾濫的で、ほとんど全ての美しいものにクリックとドラッグのわずかな操作によってアクセスできる(ある意味では思慮を要求される)豊かさと過剰さを持った時代から生まれた必然的状況であり、また芸術における福音と警鐘、解答のない問いと美しいものの洪水を両義的に抱える時代における、審美と尊厳の上での生存のためのものとも言えるのだろう。
*2=ゲットー・ゴシック。Venus Xが2009年にNYでスタートさせ、かつて毎週開催されていたパーティ/プラットフォーム。
7.(Lovelessに至る)方法、原動力、動線、自発性
そしてシューゲイザーに話を戻すと、そもそもシューゲイザーのルーツの一つであるパンク・ロック自体が、旧来的なロックの神話(=原理であり定義とされていたものの歴史的反復)への音楽的な、もしくはアティテュードとしての否定を起点としており、それ以降のポスト・パンクも、パンク・ロックが提示した原理の反復への拒否として、その音楽的な実験や進化を定位できる。それ以降として、その主にポスト・ハードコアの文脈で語られるアティテュード(=物事に向かう姿勢)というレベルでその反骨精神を継承したケヴィン・シールズによる『Loveless』の創造は、現在と比較すると保守的だった当時のロック・シーンに対して一つの亀裂を入れる行為である。その行為には方法、原動力、動線、自発性が必要だ。
まず方法として、〈常人離れした高度な技能がなくても音楽を創作できる〉という、その後のポスト・ハードコアにおける“Do It Yourself”という思想と営為に繋がるパンク・ロックの基本的な姿勢が挙げられる。異常な速度でギターを演奏できなくても、音楽への愛情と審美眼とクールネスがあれば、ある種の音楽を創造できるというロック史上の一つの発明である。だが、技術至上主義に対する否定も重要で、この文脈においてもパンク・ロックの営為は意味と影響を持つが、もう一つの重要な側面を見落としてはならない。技術至上主義的なロックの状況に対してパンク・ロックが示した否定は、ロック・ミュージックの展開の上での一つの大きなスライドだったのだ。ブルース的で滑らかな進行が(現在の受容とは無関係だが)旧時代のものと化し、コード進行と旋法の、コントラストに満ちた色彩とクールネスで音楽を描くという一つの転換が、前述した『Loveless』における旧来的なコントラストの美学から新しいグラデーションの美学への変貌の基盤となっている。
そして、原動力と動線として、パンク・ロックの前時代的なロック神話に対する一つの否定とスライドが挙げられる。音楽は前提として、美意識などの感性的な領域と、例えば楽理のような音楽についての実際的な知と方法、そして作家の個人思想や理念、及びそれに基づいたコンセプトを基盤に内包している。その個人思想と理念というレベルで、おそらくパンク・ロックが達成した旧来的なロックへの否定と更新という、巨大な飛行船が墜落するような出来事を目の当たりにしたことは、ケヴィン・シールズにとって大きなものだったのだろう。(現在とは違う、当時という時代における)退屈なオールドスクールからヴィヴィッドなクールネスへの移行は、現代でもあらゆる音楽の領域で系譜的に起きている、と筆者には映る。そして『Loveless』には伝統的な、もしくは保守的で単線的な系譜に対する忖度が全く存在せず、それは脱構築という形でも、それとは別のレベルでの聴取体験でも明らかに感じ取られる。伝統や系譜を意図的に侵犯するような営為の根源に、その侵犯を主義とするパンク・ロックという一つの達成があるのではないか。
作家の自発性に話を移そう。まず、前提としてアナーキーな、作家の自己表出と創造以降として起きる、作品が作者の意図を超えて展開していくという営為、つまり意図からの逸脱というレイヤーが最初にある。次に、その中での作家の自意識(もしくは主体についての認識)、作品、手法のせめぎ合いの中で起きる、作家から見ると自己進化しているように映る作品の展開、つまり重複して起きるもう一つの逸脱のレイヤーがある。そして、創造の逸脱と進化の中で、境界や音楽の中核概念の周辺にあるスタイルが剥ぎ取られてゆき、意味と構造が変貌し、痕跡として機能し始める瞬間に、非意図的な営為として、ロック・ミュージック及びアンビエントに対する脱構築が起きたのではないか。美しい結晶であり、時代を経ても風化しない音楽史上の特異点である。
8. 終わりに
現代の視座から見ても芳醇な作品である『Loveless』が、後年のロック・ミュージック、そしてそれ以降のエクスペリメンタル・ミュージックやクラブ・ミュージックに与えた影響は大きく、正しく歴史的文脈の変容と呼べる影響を示している。まだ豊かな文脈を内包しているこの作品を今後も愛聴したい。
* * *
参考文献:
守中孝明『脱構築』
ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』
アーサー・C・ダントー『芸術の終焉のあと』
Author
- 大阪を拠点に活動する音楽ライター/歌人/レーベル主宰者。Sleep like a pillowでの執筆や海外アーティストへのインタビューの他、遠泳音楽(=Angelic Post-Shoegaze)レーベル「Siren for Charlotte」を共同オーナーとして運営し、主宰を務める短歌同人「天蓋短歌会」、詩歌同人「偽ドキドキ文芸部」にて活動している。好きなアニメはserial experiments lain、映画監督はタル・ベーラ。