Posted on: 2025年5月6日 Posted by: 對馬拓 Comments: 0

MoritaSaki in the poolがアルバムを作っている──会話の冒頭でも触れているが、「EPを作る以外のことは自分にとって嘘だ」とまで言っていたバンドがアルバムを作っているらしい、と知ったのは2023年末か年明け。これはただごとではない。期待と、一抹の不安。ただただリリースを待った。そして、異常に暑い夏がまだまだ終わらない2024年9月、世に放たれた8曲を聴いて、これは色々問い詰めなければならないと思った。

それからなかなかタイミングが合わずに年が明けてしまったが、ようやく首謀者のイシハラリクにたっぷり話を聞く機会を得た。これはその約2時間の記録を、なるべく編集の手を加えすぎないよう十分配慮しながら記事化したものである。次々と解き明かされるアルバムのギミック──『Love is Over!』とはなんだったのか?

インタビュー/文/編集=對馬拓
写真=井上恵美梨(2024年10月12日『nevv you Act.06』@下北沢THREE)

■ プラットフォームをサーフする、反 “コンテンツ”、文脈ゴルフ

──最初に「アルバムを作ってる」と聞いたとき、まず「アルバムか!」と思ったんですよね。というのも、2023年のインタビューでは「EPを作る以外のことは自分にとって嘘だ」とまで言っていたので。笑 まあ、発言と行動との矛盾は「言ったこととやってることが違ったら結果を2個ゲットできる」という理論(2024年のインタビューより)に基づいてるかと思いますが……そもそもなぜアルバムを作ることになったのでしょうか?

レーベル(Vinyl Junkie Recordings)に入って初めて「アルバムを作るといいんだ」って知って。今まで我々は音楽シーンの事情とかを何一つ知らなかったんですけど、アルバムを作ると “一つ大きいことをした” っていうエネルギーが働くことがわかって。EPとかシングルはリリースの土俵に乗れなくて、アルバムをリリースしてようやく取り扱われる。スマホでSpotifyとかApple Musicを見てもアルバムが一番上で、EPとシングルは下に表示されて “その他の雑多なリリース” みたいな扱いじゃないですか。そういうことを考えたときに、「アルバムを出すっていいことなんだ」って。でも俺、アルバム好きじゃないし、どうしようかなって悩みましたね。

なので、その悩みに対する回答として作ったアルバムです。今は何がアルバムで、何がEPで、何がシングルで、っていうラインがプラットフォーム側で明確に決められてるんですよ。3曲まではシングルで、4曲からはEPで、8曲からはアルバムだって。昔は3曲でEPって名乗ってるCDとか7インチも普通にあったと思うんですけど。

──特にSpotifyは曲数で自動的にシングル/EP/アルバムに分けられちゃいますもんね。

今の世の中ってなんでもプラットフォームがあって。音楽のサブスクリプションもそうだし、YouTubeだってそうだし、SNSとかも全部そうじゃないですか。自分で作ったホームページじゃなくて、住所を借りて、そのプラットフォーム上で何かをやる。そういう考え方があまりに作られすぎてるんですよ。俺は別にそれを悪としてるわけでも嫌ってるわけでもなくて、みんなが同じフォーマットで遊べて楽しいからいいなって思うんですけど。でも、そういう “プラットフォーム・ドリブン” に対する疑いはあるというか。プラットフォームの何が良くないって、みんな “コンテンツ” を作っちゃおうとするんですよ。それって俺にとってはすごく意味がないことで。音楽だけに限らずあらゆる作品って、もっと全体性を持ったものであるべきだと思うんですけど。

──“コンテンツ” っていうのは、例えばどういうものですか?

“一つの箱の中のもの” というか。プラットフォームの中の “コンテンツ” は、みんな発表会みたいですよね。そういうプラットフォームの中でアルバムを出すってなったときに、俺はあくまでアルバムは出したくないから、すっきりEPのように聴けるものを意識したし、物理的抵抗として、7曲であることと8曲であることが揺らぐアルバムを作りたかったんですよ。プラットフォームをどうサーフするか、どう遊ぶか、っていうのが全編通して考えられたアルバムですね。

──ストリーミングで配信されてる『Love is Over!』を見ると、1曲目の「Portraits」に括弧書きで “Delete this from your device once you’ve listened.” と書いてありますが、これはつまり「Portraits」を含む8曲だとアルバムだけど、デリートして7曲にするとEPになるってことですよね。

そうです。デリート、つまり “消せ” と命令してるのも、強制的に消えるわけじゃなくてリスナーの意思に委ねてるのが、揺らぐ感じがしていいかなって。常にどっちでもあり続ける状態、っていうのがすごくラヴ・イズ・オーヴァーかなって。笑 ラヴって自分の手で終わらせるもの、自分でしか終わらせられないものなんですよ。

──聞き手自身も能動的になる要素があるのがすごくいいと思いました。

それはめっちゃ大事ですね。インタラクティヴ(相互作用、双方向)なものじゃないと面白くないと思ってて。俺、人生で作ってきた作業量が一番多いものって音楽じゃなくてゲームなんですけど、ずっと子供の頃からゲームを作ってて。作ったゲームを人にやらせるのってかなり面白くて、音楽を作って聴かせるよりも快感があると思うんですよ。自分が発信したものを相手が受け取ったときの反応が見えるから? ……コミュニケーションに飢えてるんですかね? だからすごく大事で、なんならこの1曲目をやりたかったがためのアルバムというか。

俺、“文脈” をすごい大事にしてて。ただの辞書的な意味の文脈じゃなくて、諸芸術で大事にされてる文脈。さっきの話とも繋がるんですけど、文脈に沿ってないもの、文脈を大事にしないものは容易に “コンテンツ” になるんですよ。文脈があるものは “コンテンツ” になりにくいし、全体性を持つものになる。で、俺たちバンドをやってる人間にとって強度が強くて大事な文脈って、ビートルズだと思うんですよ。でも、俺らってビートルズから超遠くて。アジア人だし、日本で音楽をやってるし、使ってる楽器も違う。ビートルズは “幹” で、俺ら現行日本のオルタナティヴ・ロック・バンドは枝葉の枝葉で、どうしてもビートルズに近づくには何個もジャンプしないといけなくて。末法思想ってあるんだなって思うんですよ。枝の枝の枝は流れのないものになっていく。そういうものって “コンテンツ” だなって。だからビートルズからは正攻法だとすごく遠いんですけど、1個マジで最高の、スリーポイントシュートみたいなウルトラCがあって。“オノヨーコ” なんですよね。俺たちは日本人だから、オノヨーコには一撃で飛べるんですよ。

──なるほど……!笑

これめっちゃ最高で、“文脈ゴルフ” でビートルズに近づこうとしたらめっちゃスイング数がかかるんですよ。でもオノヨーコの方に飛ばせば二手。俺はとりわけインストラクション(指示)っていう形でのパフォーマンス・アートに傾倒してて、MoritaSaki in the poolはそれを大事にしてるんですけど、バイオグラフィーで公開してる要項みたいなインストラクション(*1)も、「Portraits」の “消せ” っていうのも、オノヨーコを意識したものです。「Portraits」は歌詞自体もオノヨーコみたいなことを言ってるんですよ。

*1:https://drive.google.com/file/d/1yowNG9RDz6a2r01BWJPqNFl_0oph74o0/view

──〈想像できるよ〉って、そういうことだったり?

イマジン……まあ俺「イマジン」は別に好きじゃないので、『グレープフルーツ・ジュース』ですかね。『グレープフルーツ・ジュース』っていうオノヨーコの本があって、それに影響を受けてジョン・レノンが作ったのが「イマジン」なんですけど。だから俺からするとイマジンは親じゃなくて兄弟というか。『グレープフルーツ・ジュース』って、毎ページ指示みたいなことが書かれてて、その中でいろんなイマジネーションを膨らませていく本で。すごく影響を受けましたね。超好きで、最後のページが「この本を燃やしなさい。」っていう指示で終わるんですけど、そこからも影響を受けてます。青い薔薇のヴォーカルのきゅーちゃんと、その指示を大真面目に全部やったことがあって。「金魚を想像して1リットル水を飲め」とか「彫刻を作って山に置きに行け」とか、そういう指示を全部守って、最後に燃やして、っていうのを何ヶ月もかけて2人でやった時期があって。だからすごく思い出に残ってます。

──ビートルズは正直盲点でした。

ビートルズはめっちゃ考えてますよ。バンドを考えるときにビートルズを考えないのは、ルールを見ずにゲームをやってるみたいな感じです。最初に自分たちで曲を作り始めたバンドがビートルズだし、絵を描くこととか、立体を作ることとか、そういうものと同じような価値をバンドにも持たせていいんだ、っていうことを初めて世界に思わせたのがビートルズ。だからとりわけパンクとか、オルタナティヴとか、あとヒップホップとかもそうかもしれないけど、カウンターというか新しいものを作っていこうとするジャンルについては、ビートルズを参照しないのは違うんじゃないかと思います。

──確かに。ビートルズって物心ついた頃からテレビとかラジオで流れてたし、根本ですね。バンドっていうものをなんとなく初めて認識したのがビートルズだった気がします。4人いて、楽器を鳴らしてる人たち、っていう。

俺は俄然アジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)ですね。10歳の頃に『鉄コン筋クリート』を観て、あれめっちゃかっこよくて好きなんですけど、その主題歌(「或る街の群青」)を聴いて「バンドってあるんだ」って思いました。それまではバンドって言葉が頭ん中に浮かんだこともなかったですね、人生で。ロック・バンドっていう言葉はアジカンから学びました。あと「Portraits」はゴッチが聴いてくれたっぽくて。プレイリストに入れてくれてて、感激しました。

──すごい!

ゴッチ?!と思って。超嬉しかったんですよ。俺にとって一番大事な曲なので。元々「Portraits」のポジションに座るはずだった曲が難しくて弾けなくて、どうしようかなと思ってたんですけど、その日の帰りの電車で、スマホのGarageBandで作ったのが「Portraits」で。だから俺がほとんど弾いてて。自分から出たままのもの、何も構えてない自然なもの、っていう感じの曲だから嬉しかったですね。すごく自分が認められた気がしました。ちなみに「Portraits」と「Enrique」のドラムは全く同じものです。同じドラムを叩いたとかじゃなくて、録り直しもしてない全く同じトラック。

──全然気がつきませんでした。

わかんないようにしてあるんですけど。俺が急遽作った曲だから、既にあったドラムを引っ張ってきてるんですよね。多く補足することはないですけど、このアルバムにとってすごく意味のあることだと思います。

■ 斜め方向の介入──パルクールとタクティカル・アーバニズム

──アルバムを作る際、出発点になった曲はあったんでしょうか。

「MIRROR’S EDGE」ですね。シングルにもカットしてるぐらいですし。パルクールの曲なんですよ。「MIRROR’S EDGE」を作っているときに、パルクールの考え方とプラットフォーム性っていうのが上手く結びついて。

──パルクールの曲!

運動しているときに頭の中で作ったものを曲として出力することを信仰してて。1st EP(『This is a Portrait of MoritaSaki.』)はレガシーというかクラシックとしてのプール、つまり水泳からですし、2nd EP(『Ice box – EP』)は、あの時期アイススケートにハマってたので、スケートをやってる中で作っていった曲で。 そういう時期を経て「そろそろパルクールかな」っていう波が来て。パルクールって、すごく “斜め方向の介入” って感じがするんですよ。街というプラットフォームをショートカットするというか、ちょっとバグ的な使い方をするっていう。俺はそれを斜め方向の介入って表現するんですけど、それはすごく大事にしてて。プラットフォームを破壊するわけじゃなくて、遊ぶ。いろんなプラットフォームが当たり前になってきたからこそ考えていきたいというか、それがオルタナティヴっていうことだと思ってて。

『Tiny Summer of Love』(*2)を一緒にやってる、幼なじみでめっちゃ仲良しのカツベっていう建築家がいて、アート系の建築とかをいろんなところでやってるやつなんですけど、仲間で集まって飲んだときにそいつが話題に出した「タクティカル・アーバニズム」っていうのがあって。街作りにおいて、ハックする形で仮実装するみたいな──例えば無人のコインパーキングで、特殊な装置を使って車は停めてないけど停めてるかのように借りて、そこにベンチを設置して休憩所を作る、とか。本来停める車はないけどお金は払ってるから、パーキング的には一緒というか問題ないじゃないですか。そういう感じで街を間借りしてシステムを仮実装しよう、みたいな考え方で。ちょうどパルクールとかプラットフォームのことを考えてる時期だったから、すごい刺さって。だから「MIRROR’S EDGE」はすごく大事な曲ですね。

*2:リリース元(レーベル)のTINY SUMMER OF LOVEの母体となる団体。これまで2023年と2024年に同名のフェス『Tiny Summer of Love』を京都GROWRYにて開催。

──タクティカル・アーバニズム、めっちゃ面白いですね。ルールは破ってないんだけど破ってるみたいな、そういう絶妙なところが気持ちいいというか。

面白いですよね。ぶっ壊すんじゃなくて……別に敵じゃないし憎んでるわけでもないし壊したいわけじゃない。俺って大体のものをすぐ好きになっちゃうから、ぶっ壊したいものはなくて。ぶっ壊したいものがないやつってパンクできないんですよ。反抗するべきものがないから。じゃあサーフしていけば面白い。全部のことに対していたずらを仕掛けて去っていく。グラフィティっぽいというか、そういうやり方が自分にできることかな。道を壊さずに新しい道を示す。そうするとみんながもっといろんな遊び方を提示できるようになるんじゃないかな、っていうことを考えてます。

──僕らって都市労働者じゃないですか。そういう窮屈な環境で、いかに自由に振る舞うかっていうのは、自分の中ではすごく足りてないことだと思いました。大半の人は決められた枠の中でおとなしく過ごしてると思うんですよ。そこからどうはみ出すか。そういう想像力って、日々の生活の中で思考が摩耗されて、どんどん考えられなくなってくる。

壁がどんどん立ちますからね。

──だから『Love is Over!』っていうアルバム……いや、今回のアルバムに限らずMoritaSaki in the poolの音楽における清涼感とか風通しの良さって、そういう部分にも通ずるのかなって思いました。障害物とか抵抗も何もなく、さっと吹き抜けていくような気持ちよさがある。

確かにそうかもしれないですね。多分、俺の心の風通しがいいんでしょうね。そうやって生きてるから。

──ちなみに「MIRROR’S EDGE」というタイトルはゲームから取ってるんですよね?

そうです。主観映像でパルクールができるゲームがあって、めっちゃ面白いんですよ。本当にパルクールしてるみたいな感じで。俺、実際に駅前の入り組んだところでパルクールをやってみたんですけど、普通に落ちて。笑 近くでスケボーやってるキッズに「大丈夫ですか?」みたいな感じで心配されて。すげえ痛いし、スケボーキッズにも迷惑をかけてムカつくし悔しくて。ニノ(ニノミヤタイガ / Gt.)ってキックボクシングやってるんですけど、ギタリストなのに手とか骨折してギター弾けなくなったら馬鹿みたいだから、寝技主体のスタイルに転向しようかなってちょうどそのとき言ってて。それで「あー、俺も気をつけよう」って思ったんですよね。だから街を普通に走ることでパルクールをやりたい気持ちを発散しつつ、残りは『MIRROR’S EDGE』をメルカリで買って補完するみたいな感じの生活でしたよ、あの当時。

──実際にゲームもプレーしてたんですね。

してましたね。すげえいいんですよ。青空と白い屋上しかなくて、たまに踏み台とか使える障害物とか行ける場所は赤くて、青と白と赤だけ、みたいな。色彩的にもミニマルでかっこいいし、画面が白飛びしてるみたいに明るくて、すごくいい景色で。でも後半になるに従って屋内でやることが増えて、つまんないんですよ。最初の外を飛んでるときのチュートリアルとかが好きで。時間経過と共に進んでいくゲームなので、2面では夕方になっていくんですけど、それがもう全然好きじゃなくて、最初の部分だけがずっとあればいいのにと思って、そういうときに俺は曲を作るんですよね。これでもうゲームの『MIRROR’S EDGE』はやらなくて良くなるからめっちゃ嬉しいですね。ゲームが好きな友達って全然いなくて。多分みんなあんまりやってないゲームをしてるからなんですけど。笑 だから引用しても誰もわかってくれないし。『MIRROR’S EDGE』が好きな人がいたらいいなって思います。

今作は結構ゲームの景色から影響を受けてます。『MIRROR’S EDGE』ともう一つは、『In the Pause Between the Ringing』(*3)っていうインドのインディー・ゲーム会社が作ったゲームですね。カラフルな空間を歩きながらインドの歴史を学ぶみたいな内容で、デザインがすごくかっこいいんですよ。まあそういう感じのタイトルだから、自分以外はやってる人が全然いなくて。

*3:https://store.steampowered.com/app/1048570/In_the_Pause_Between_the_Ringing/

──色彩がすごくいいですね。でもこれでインドの歴史を学ぶ?

意味わかんないですよね。メインストリームのゲームはあんまり知らなくて、こういうインディー・ゲームみたいなのはめっちゃやります。 この二つのゲームからの色彩感覚はめっちゃ大事にしました。

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